ねこニャン観察日記
3月12日(水)
『猫』の存在 by みかんパパ
ペットショップに行くと、どうしても猫派の私はうつむいてしまうのである。
猫に関する物の売り場面積が、犬と比べると極端に狭いからである。我が家がひいきにするショップは、犬用の関連グッズ売り場が3分の2を占め、残りの売り場で猫と他の動物たちの物が売られている。
子犬と子猫が入っているケージを見れば明らかである。犬と猫の割合は10:1となる。
これでは、うつむきたくなるのも分かって頂けるであろう。
娘たちには、家内ともども「親ばか」と言われているが、元々猫好きだったのかというと…そうではない…(^_^;
家内には確認していいないが、私は「犬派」だった。
猫を飼った経験は、私がまだ小学生だったころに一度だけあるが、そのとき飼っていた猫は♂で、何せ田舎のこと…
家の外と中は出入りが自由。♂猫は縄張りのパトロールに余念がなく、暗くなるまで帰って来るようなことはなかった。
冬場に湯たんぽ代わりに抱いて寝るだけ。それも猫も賢かったせいか、私が寝付くとどこかへと行ってしまう。朝目が覚めると、両親の寝室から出てくるのを見るたびに、失恋したような気分を味わされていたのを憶えている。
この♂猫が亡くなってからは、我が実家では猫を飼うことはなかった。
ただ不思議だったのは、猫が行方不明になり、数ヶ月後になって死んだ姿を確認したのである。
猫は飼い主には、死ぬところを見せないというが、子供心に感心したのを鮮明に記憶している。
猫が亡くなってから、私が拾ってきた「捨て犬」を飼うようになり、親父の趣味もあって数頭の犬を飼うようになった。
自分がまさか「猫派」だったとは、我が家に“みかん”がやって来るまでは気付くことはなかったであろう。
猫を見ていて、何とも不思議なのは、私たちが思っている以上に「人間の言葉」を理解しているということである。
どういしても、かつて犬派だった私は、人間の言葉を忠実に守るのは「犬」だけだと思い込んでいた。
しかしそう思い込むのは仕方のないことかもしれない…私は「犬」=ラッシー=コリーであった。
ご存知ない方も多いと思うが、40代後半くらいから上の方には、頷いていただけると思う。
呼ぶとフサフサの毛をなびかせて、走ってくる姿に、『大人になったらラッシーを飼うんだ』と心に固く決めていたのである。
猫はマイペースなため、どうしても毛嫌いされてしまう。
犬のように、千切れても尻尾を振り続けるような感情表現はなく、「私は私、あなたはあなた」ややもすれば、「勝手にやってよ」とまで冷めた態度をする。
これは本能的なものであって、猫はけっしてわがままでもなければ、身勝手な生き物ではない。
日本では古来より「猫は家につく」といわれているが、これが真っ赤な嘘であることは意外なほど知られてはいない。
猫は飼い主に対してとても依存心が強い。
犬は集団(群れ)で生活するため、家庭でも序列を付けている。
子供のお菓子を横取りしたりする犬を、ご覧になった経験はないだろうか?
これは犬にとっては、自分よりも「格下」と認識しているから出来ることなのである。
しかし、その家のbPと認識していうる人間の命令は忠実に守る。
こう見ると、猫も犬も大差ないように感じるのは私だけだろうか?
猫は自分だけの縄張りを持ち、その中で一人で生活をする。
猫と人間の関係は、猫の親に対する依存心を、いつまでも持ち続けるといわれている。
人間がエサを与えるから、猫はいくつになっても子供のままということである。これが人間と猫の関係である。
人間が(というより、我が家のように)猫を溺愛するのは、子供を持った感覚になるのかもしれない。
人間の先祖を考えると、面白いことがわかる。
人間の先祖「猿」は集団生活者である。
犬と同じであるが、どうして「犬派」と「猫派」に別れるのだろうか?
人間は集団生活を望んでいるのではないだろうか?
しかし、文明の発達と共に集団から「個人」という単独生活をする形態が生まれ、この文明の発達で縄張りも曖昧になってしまった。
人間は犬(集団生活)になったり、猫(単独生活)になったりと、時と場合を選んで生活しているのが、どうやら人間のようである。
動物に癒されるのは、どうやらこの辺りから来ているのではないだろうか。
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